立正安國論


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  • 日蓮大聖人 御遺文 立正安国論 原文(書き下し文)
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立正安国論について



※文中(定)とは、『昭和定本 日蓮大聖人御遺文』全四巻を指し、漢数字は項を示す。


 略して「安国論」ともいう。開目抄・本尊抄の両抄と共に三大部の一つ。

〔真蹟〕
三本の存在が確認される。一本は身延曽存本。『日乾目録』の「七箱之内第一」の項に「一、立正安国論、最初御送状一紙 御文云雖未入見参〇故最明寺入道殿進覧之 已上十行半。御正文二十紙 題号ト合シテ四百一行、奥云文応元年太歳庚申勘文」とあり。明治八年(一八七五)焼失。乾師写本が京都本満寺蔵。二本目は千葉県中山法華経寺所蔵本(国宝)。三六紙完、但し第二四紙欠。定遺二四番の本はこれを底本とす。本文に引続き「安国論奥書」(定四四三頁)が書き継がれ、最後に「文永六年太歳己巳十二月八日写之」とある。三本目は京都本圀寺所蔵本。定遺二七九番の『立正安国論(広本)』(定一四五五頁)はこれで、二四紙完、無記年、定遺は建治弘安の交とし、『対照録』は弘安元年(一二七八)に系年。なお此の外、真蹟断片一四紙が一〇箇所に散在。京都妙覚寺に一行断片が三紙、三行断片が一紙。新潟本成寺に一行断片一紙。千葉妙興寺に四行断片一紙。京都本圀寺に一行断片二紙。長崎本経寺に一行断片一紙。愛知聖運寺に一行断片一紙。京都本満寺に五行断片一紙。福井平等会寺に一行断片一紙。某氏所蔵一行断片一紙。千葉善勝寺に二行断片一紙である。これは身延曽存本の一部か『高祖年譜』が伝える真間山弘法寺旧蔵本の一部か不明。中山本に欠ける第二四紙に相当する部分は右の断片にはない。右断片はまとめて文永初期と係年されるから、文永五年(一二六八)一〇月一一日付『与宿屋入道書』の「重ねて諫状を捧ぐ」(定四二七頁)の辺に相当するか。


〔写本〕
直弟の写本の現存するものは、伊豆玉沢妙法華寺に日興写本、身延久遠寺に日向写本、千葉中山法華経寺に日高写本、静岡岡宮光長寺に日法写本、鎌倉妙本寺に三位日進写本がある。

〔系年〕
『安国論奥書』に「文応元年太歳庚申之を勘ふ(略)其後、文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して最明寺入道殿に献し奉れり」(定四四二-三頁)と。即ち文応元年(一二六〇)七月一六日、北条時頼へ進覧した本である。遺文中同様記述多し。稿了の日時に関しては遺文中に記述を見ないが『小湊誕生寺所蔵日祐筆目録』によると同年五月二二日である。

〔述作由来〕
『安国論奥書』に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥之尅の大地震を見て之を勘ふ」とあり、述作の直接の動機が正嘉元年(一二五七)八月二三日の鎌倉大地震にあったことは遺文に明瞭である。『安国論御勘由来』によると災禍はその後も続き「同二年戊午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘って大疫已まず。萬民既に大半に超えて死を招き了ぬ」(定四二一頁)とある。その惨状は本論の冒頭に「近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢て一人も無し」(定二〇九頁)とある。鎌倉名越松葉谷の草庵にあってこの惨状を眼前に見た聖人は、かかる天変地異の興起の由来と対治の方法を仏典に求めて、翌正嘉二年正月、静岡県岩本実相寺の経蔵に入り、一切経を披閲したと伝えられる。聖人は一切経研究の結果、正元元年(一二五九)には『守護国家論』を著して法然の『選択本願念仏集』を教学的に論破し、更に念仏者追放の奏状・宣旨・御教書・院宣・下知状の五篇を集めて政治的方面から法然念仏を破斥した『念仏者追放宣状事』を著述、次いで翌正元二年二月上旬には安国論の草案ともいうべき『災難興起由来』『災難対治鈔』を述作して本論述作の準備とされた。かくて文応元年七月、本論を北条時頼に進覧したが、時頼は既に建長八年(一二五六)一一月二二日執権職を同族の長時に譲り、翌日自身建立の最明寺にて落飾し入道していたので「最明寺入道」と呼ばれる。名義は長時に譲ったが、実権は握っていた(『王代一覧』五)ので、本論を時頼に提出したのである。因に本論提出に対する幕府の反応は『下山御消息』によると「正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺の入道殿に奉る。御尋もなく御用もなかりしかば、國主の御用なき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並に檀那等、又さるべき人々にも同意したるとぞ聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押寄て殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。(略)日蓮が生たる不思議なりとて伊豆国へ流しぬ」(定一三三〇頁)と、本論の提出が松葉谷草庵の襲撃、伊豆流罪を招いたことを物語る。聖人の受難の生涯はすべて本論並びに立正安国の理想実現のための弘通が原因となっている。

〔略本と広本〕
『朝師御書見聞集』一に、「安国論広本略本の事、或る人云く、広本は草案の御本也。当時の略本は公界に出し玉へる御本也」とて本圀寺の広本は中山法華経寺の略本の草案であるという伝承を挙げている。広本は録内御書やその他の遺文集に収録されず、小川泰堂の『高祖遺文録』に始めて収録されたが、略本の草案と見なして略本の前に広本を掲載している。『縮遺』もこれにならう。広本の真蹟は初めの数紙は御真筆であるが、その後は弟子の筆跡であると鑑定されているのであるが、御真筆に引続いて書き継がれていることといい、また中山の『日祐目録』に「安国論一帖並に再治本一帖」と既に列名されていることといい、聖人在世中の成立であると見て差支えない。また『当家宗旨名目』下に「建治再治安国論御座也」といい『富士一跡門徒存知事』に「此に両本有り。一本は文応元年の御作、是れ最明寺殿と及び法光寺殿へ奏上の本也。一本は弘安年中身延山に於て、先本に文言を添へ玉ふ。而も別の旨趣無し、只建治の広本と云ふ」というに従い、且つは略本がただ法然浄土宗のみを破斥するに対して、広本は東密・台密にも折伏を及ぼそうとする気勢が見えるので、定遺は広本を略本の増補とみて建治の末に掲載する。

〔題意〕
立正安国の四字は一篇の内容と目的とを最も明確に表現した語である。また聖人の宗教観を最もよく表示した言葉である。立正とは正法を建立する。安国とは日本国ないし一閻浮提の万民を安穏にする。引いては一閻浮提を仏国土とするの意である。浄仏国土は菩薩たるものの必須の誓願である。しかるに法然房源空は菩提心を三福の一に数え、雑行として捨て、専ら称名を勧めて唯だ西方極楽往生を人生の目的とせよと説く。これ宗教の荷うべき責務に必ずしも沿うものでないことを表明する意味もあって、立正安国の題を立てられたに違いない。また法華経の理想は立正安国にある。故にこの題を選ばれたのである。また前年の著作に『守護国家論』があり、守護国家は一年の後に立正安国に改められた。守護国家は何によって国家を守護するか、題名には表れていない。故に題名を充実して立正安国とされたに違いない。例えば栄西の『興禅護国論』は興禅によって護国するのであるから、やや立正安国に近い題であるが、護国と安国とどちらがより宗教的用語であるか、いうまでもない。護国は伝統的用語ではあるが、護国ならば政治・軍事でも可能であるが、安国、精神的安穏はただ宗教のみが齎し得るところである。

〔大意〕
本論は鎌倉時代特有の漢文ではあるが、国諫の書として修辞に意を用い、四六駢儷体に擬した典雅流暢な文章である。旅客と主人との十番問答からなり、一番から五番までは、打続く天変地異飢饉疫病等の災難は主として法然の念仏の邪法の興盛に起因することを、経文を証拠として論断し、六番から八番までは、念仏の邪法を禁断することにより、これらの災害を防ぐことができる旨を経文を証拠に論証する。以上八番は既に興起した変災飢疫の由来を追求して邪法の流行によるものとし、もって念仏を破する破邪であるから、本論の序分である。九番は未起の災難たる他国侵逼難・自界叛逆難の続起、来世の堕地獄を予言して、法華への捨邪帰正を勧める。「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰へん哉。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れん哉。国に衰微なく、土に破壊なくんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此言信ずべく崇むべし」(定二二六頁)というこの段の六四文字の結文により、本論の標題たる「立正安国」の名義は成立するのである。この段が本論の正宗分である。十番は客の領解と入信の告白と化他の誓約とを述べたもので、本論の流通分に当る。以上により本論の大部分は破邪に費され、正宗分の立正は僅かに第九番にすぎないことがわかるが、では何故に立正の内容を説明しなかったのか。これについて後半の『三沢抄』に「此国の国主我をもたもつべくば、真言師等にも召合せ給はずらむ。爾時まことの大事をば申べし」(定一四四七頁)とある。即ち国諫により、もし幕府が激発されて真言師や念仏者等との公場対決を計画するに至ったなら、その時に「まことの大事」つまり立正をも明らかに説き聞かせようと思い、この国諫書ではまだ明示を避けたわけである。 次に聖人の全生涯から本論の論旨を見て、二、三の問題点を列記すると、一に破邪の対象は、本論の文章上では明らかに法然の念仏に限られるが、のちに至って『法門可申鈔』には「故最明寺入道に向て、禅宗は天魔のそいなるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ」(定四五五頁)、『故最明寺入道見参御書』には「日本国中為に旧寺の御帰依を捨てしむるは、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、之を申す。又立正安国論之を奉る。惣じて日本国中の禅宗・念仏宗」(定四五六頁)とあり、また『撰時抄』には「去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失い給ふべしと申させ給へ」(定一〇五三頁)等といわれる文面によると、本論進覧以前に宿谷入道乃至北条時頼に見参の砌、念仏宗と禅宗とを禁止せよと口頭にて進言されており、更に『阿仏房尼御前御返事』に「偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざるとの重罪免れ難し」(定一一〇九頁)、『本尊問答鈔』には奈良六宗・浄土宗・禅宗・真言宗が悪法である理由を詳しく論評してのち「此事日蓮独り勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。仍て故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名つけき。其書にくはしく申したれども愚人は知り難し」(定一五八二頁)とあるによると、愚人は知り難いが、大智慧の者には本論に真言・天台批判もあることがわかるといわれる。爾前無得道・諸宗無得道の宗義は既に正嘉・正元の頃に確立されたから、本論には一切諸宗に対する批判があっても当然であるが、その興盛ぶりを見て一に念仏宗を破斥の対象に選ばれた。また一切諸宗を批判すれば、論旨が乱れるから念仏宗だけを破斥された。ただ西方極楽往生だけを人生の目的とする念仏宗を批判すれば、立正安国の旗幟が最も鮮明になるわけである。しかし右のような聖意のもと『広本』が生れ、弘法・慈覚・智證等の名が諸処に挿入されて、天台・真言批判を文上にも盛り付けたのである。二に災難の見方の変遷。本論では正嘉の大地震以来の引続く災害の興起を邪法たる法然念仏の興盛の結果であると『金光明』『大集』『薬師』『仁王般若』の四経によって論断するが、この見方は次第に変遷して、文永五年(一二六八)の蒙古の来牒に際して発せられた『十一通御書』の中の『与平左衛門尉頼綱書』では「此事を申す日蓮をば(伊豆に)流罪せらる。争でか日月星宿罰を加へざらんや」(定四二八頁)とて、日蓮を迫害する故に災難ありとされる。これは〈邪法を信じる→正法を信じない→日蓮を迫害する〉という筋であるから、同類ではあるが、一層端的な表現である。そして本論第二答の中の「仁王経に云く(略)若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」(定二一一頁)にその片麟を見ることができよう。なお、この表現は以後生涯にわたって続く。次には佐渡以降は災難をもって上行菩薩出現の瑞相とされる。即ち佐渡よりの第一書たる『富木入道殿御返事』に「天台伝教は粗釈し給へども之を弘め残せる一大事の秘法を此国に初て之を弘む。日蓮豈に其人に非ずや。前相已に顕れぬ。去る正嘉の大地震は前代未聞の大瑞也」(定五一六頁)とあるを始め、その後生涯にわたってこの表現も続き、殊に『瑞相御書』はその説明に委曲を尽している。三に予言の的否。本論の第九答に「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速かに情慮を回らし、急ぎ(邪法)に対治を加へよ」、しからざれば未起の自叛・他逼の二難も必起なりと予言されるが、この予言は文永五年・同六年の蒙古牒状の到来により他逼の予言的中の近きを思わせ、佐渡配流第二年目の文永九年二月の北条時輔の反乱の勃発により自叛の予言が的中し、文永の役・弘安の役により他逼の予言が的中した。予言の的否は聖人の関心事の一であることは、文永七年一一月太田氏への『金吾殿御返事』に「抑も此法門之事、勘文の有無に依て弘まるべきか之れ弘まらざる歟、去年方々に申して候」(定四五八頁)と、法華弘通の成否を本論予言の的否にかける向きがあることにより明らかであり、従って的中すれば悦びの一面もあるわけで『種種御振舞御書』に文永五年の蒙古牒状到来の頃を顧みて「日蓮が去文応元年太歳庚申に勘たりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず」(定九五九頁)と当時の悦びを披露している。文永の役に際しては『聖人知三世事』に「日蓮は一閻浮提第一の聖人也」(定八四三頁)といわれる。聖人とは未萌を知る人をいう。予言の的中がいかなる法華経的意味を有するかの最終的結論は『撰時抄』に三度の高名をあげてのち「此の三の大事は日蓮が申たるにはあらず、只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華經の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(定一〇五四頁)といわれる。一念三千の法門により、教主釈尊が我が身中にましますことはわかるが、わかっただけでなく、ましますことを外に向って実証してみせたところに予言的中の意義があるというわけである。しかし的中を悦べば、他人には聖人が自叛・他逼あれかしと願っているように見えるから、例えば『報恩抄』に禅・念仏・真言の法師達が聖人を悪口する言葉を列記する中に「天下第一の大事日本国を失はんと咒そする法師なり」(定一二三八頁)というのがある。弟子信者の中にさえとかく聖人の心中を誤解する向きがあり、厳しく誡められたところである。《日朝『安国論見聞』、『日蓮聖人御遺文講義』一、『日蓮聖人御遺文全集講義』四》(浅井円道)












2016年03月30日