【争いは教義では止まらない。必要なのは『対立停止装置』という視点】
宗教者同士の争いは、思想の違いで起きているのではありません。構造の欠陥から生まれています。日蓮宗の初代管長、新居日薩上人は、四箇格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)を、
「仏念ずれば間無(ひまなし)、天魔禅(しずか)なり、言真なれば国亡、国の賊律(おさ)まる」
と読み替え、対立を煽る標語から「和合」へと転換しようとしました。
さらに、優陀那日輝上人の流れを受け、「自宗他宗の習染を脱し、一味和合」を掲げました。
つまり、権威は本来、対立を終わらせる側にも立ち得たのです。
しかし、それでも対立は止まらなかった。
なぜか。
「#対立を止める仕組み」が存在しなかったからです。
折伏か、摂受か。
その選択の問題ではありません。
精神論でも、教義でも止まりません。
必要なのは、
対立そのものを成立させなくする装置です。
これは、いわば
“””「対立停止装置」”””と呼べるものです。
これは特定の宗派や教えではありません。
言葉ですらありません。
社会に生きる人間一人ひとりの「認知」「認識」そのものが、
装置として機能します。
つまり、見る側が変われば、対立そのものが成立しなくなる。
(正しさの衝突ではなく、構造として成立しなくなる)
この視点はすでに提示しました。
そして縁起の中で、社会に広がり始めています。
今すぐ理解されなくても構いません。
50年後、100年後に評価されればいい。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあります。
SNSとAIの時代において、
宗教者同士の争いは、もはや「思想の違い」ではなく、
“””構造や教義を理解していない状態””””として可視化されていきます。
そのとき宗教は、外から批判されるのではなく、「内側から信頼を失っていきます。」
一心欲見佛合掌礼拝
※分派や離脱を否定するものではありません。
不毛な争いを無くしたいという趣旨のものです。