『全仏教二元論の相対化』目次
●①【二千年の分断を超える縁起の理法に基づく『全仏教二元論の相対化』提唱(上座部と大乗の対立を、論理的観点から相対化し、根源的な「仏の道」への回帰を促す試み)】
●②【縁起による品種の容認/仏教派閥の殻を超える智慧の対話『全仏教二元論の相対化』】
●③【縁起の理法に基づく「品種の容認」と実相への回帰】
●④このページ【争いは教義では止まらない。必要なのは『対立停止装置』という視点】
●⑤【対立論争停止装置の概要 漫画版】
●⑥【☀️縁起🌙の消防署/~全仏教二元論の相対化と、SNS時代の対立停止装置~】
【☀️縁起🌙の消防署/~全仏教二元論の相対化と、SNS時代の対立停止装置~】
最近、何人かの方とお話しする機会があり、早速「全仏教二元論の相対化」と「縁起による品種の容認」についてご質問をいただきました。ある方からは、大聖人が五十代で主要なご遺文を著されたことと重ねて、「まさにその年代なのだ」と教示を賜りました。一方、別の機会では「論理の罠」について深く頷いていただけました。
釈尊が説かれた「縁起」は、仏教の根底をなす真理であり、すでに全仏教が共有しているものです。この真理を徹底すれば、対立を根本から無効化できます。しかし他教(たとえばキリスト教など)では、一方通行の二元論が構造的に強く、相対化が困難です。とはいえ、現代では異教との論争自体がほとんどなくなったため、これはもはや実用的な問題ではありません。
対立や争いについては、昨日の漫画でお示ししたように、社会的な「途中で起きるジャッジ」(喧嘩両成敗、殴った方が負けなど)が、潜在意識として広く共有されています。これを併せて理解すると、話が早く通じます。
本来、「研究の上での話し合い」と「論争・対立」とは、次元も土俵も異なります。しかし、たとえ「穏やかな話し合い」のつもりであっても、相手を憎み、勝ち負けを意識して闘争本能に火がつき、攻撃に転じてしまうなら、それはもはや話し合いとは呼べません。
仏様の眼には、その姿はまさに三界の火宅で、煩悩の炎に身を焼かれている衆生として映っているでしょう。
安心安全な街には消防署や消火設備が欠かせません。
同じように、仏教にも「仏教対立の停止装置」が必要です。特にSNS時代となった現代においては、なおさらです。
それを組み上げました。
複雑な教義を新たに立てるよりも、既存の教えを土台にシンプルで理解が早いものでなければならないという条件を意識したものです。
一心欲見佛合掌礼拝
#全仏教二元論の相対化 #縁起による品種の容認



