コラム一覧

蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財よりも心のたから第一なり

「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財(たから)第一なり。 此御文を御覧あらんよりは心の財(たから)をつませ給べし。」
                  日蓮大聖人のお言葉 『崇峻天皇御書』より

 行き付けの飲食店で隣席にご夫婦と思われる会話が耳に飛び込んできた。

「ろくに墓も維持できん家に大事な娘を嫁がせたって苦労するのが落ちだ。親を大事にしない家庭で育ったと言う事なんだぞ!未だ挨拶にだってきとらんじゃないか」

昨今、「墓離れ・墓じまい」と言う言葉が耳慣れしたかの様に思えるなか、「おや?」と聞き耳を立てずにいられなかった。以前、当山の檀家の人も同じ事を言っていた事を思い出した。数年前から話題になったようにも思える「墓じまい」は、実際は二十数年も前から極少数であったが特定の世帯で行われていた。墓と縁のない家に産まれ育ったという世代の子供が婚期を迎える時宜が来たのだ。
どうやら娘さんの事を心配した父親が率直に感じた事を口にしたのだろう。せめて墓を護ると言ってもらいたかったものだが、「維持」と言う言葉の中に経済的な生活力の心配を指している様にも感じた。
この父親の言う「苦労」と言う言葉を少し考えてみた。経済面に関して父親の気持ちもわからなくもないのだが、むしろ重要な事は精神面の方であろう。墓や仏壇は、手を合わせ向かい合うものであるが、これら『信仰は心の教養』を得ることが唯一できる尊い行為なのだ。そしてその教養を大きく膨らませるものとして大事なのが、お題目の教え法華経を知り実践していこうと言う事にある。「親を大事にしない家庭」と言った環境で子供を育てる事は、子供からも大事にされない子を育てることに因縁を結ぶ。親を大事にするものだと口で説き伏せて「強要」する事は、「教養」にはならないのだ。無言の姿を見せつつ、幼少期より一緒に行う事で自然と培う事ができる。

今や格差社会の表れ、良かれと思う流行の中にただただ押し流されるばかりで気が付かないうちに大事な心の宝を失い、更には貧富をハッキリと分けるバロメーター(基準)を作っていると言える。貧富と言うと財力たる経済的な事に注目しがちだが、心の貧しさ、心の富という精神の持ち方を表した貧富もある。少子高齢化、若者世代の晩婚化が更に進むなか、伴侶相手を定める望みに対して厳しくなるのもやむを得ないのだろうか・・・心の宝を養う事ができる尊く優れた信仰を大事にしたいものだ。

日蓮大聖人のお言葉を考えさせられる。本年もよろしくお願いします。

2017年01月01日

衆生の心汚がるれば土も汚れ、心清ければ土も清しとて浄土といい、穢土というも土に二つの隔てなし。ただ我らが心の善悪によると見えたり。

(このコラムは、平成26年元旦に住職が書かれたものを掲載しました。)


日蓮大聖人のお言葉
「衆生の心汚がるれば土も汚れ心清ければ土も清しとて浄土といい 穢土というも土に二つの隔てなし ただ我らが心の善悪による と見えたり 」 
                    『日蓮大聖人 一生成仏抄』より



昨年の流行語の中に「倍返し!」の言葉があった。流行語の元となった、かのドラマを見ていた人にはわかるかもしれないが、実に強いインパクトで「倍返しだぁ!」と怒るシーンがある。

もっぱら倍にして「仕返し」をするという意味に置き換えて使われたようだ。
そもそもこの言葉は怒りながら使う言葉ではないはずなのだが、如何せん言葉の表面だけを都合よく使われる事が嘆かわしく思う。

広辞苑によれば、受け取ったものに対して倍額に相当するものを返す事。祝儀には倍返し。不祝儀には半返しとある。いわゆる頂いた恩や義に対してそれ以上の感謝、御礼をする事に本来この言葉の使われ方があるのだが、ドラマの背景が 「仕返し」ではなく、「感謝」の本義で「倍返しでお礼をお持ちしましたのでどうぞご遠慮なく受け取ってください」と言うような内容で流行になってもらいたかったものだ。

そんな中、滝川クリステルさんの「おもてなし」は実に感銘を受けた。特筆すべきはやはりあの合掌の姿だ。「おもてなし」は心の振る舞いであるから、他者へ対して敬愛の念を、内なる心から表す為に、言葉以上に身を以て伝える事ができる唯一の姿、それが仏教が伝え教える合掌だからだ。

合掌はお釈迦様の姿。人として美しい心の姿と教えられている。
日蓮大聖人のお言葉を考えさせられる。
「倍返し」この言葉にも二つの隔てはなく、心の持ち方でまったく意味の異なる結果となるのだ。

心の内を清らかにしてくれるお題目と合掌の姿。
これ、いつするの?「今でしょう!」
そう言えば、NHKの朝ドラ『あまちゃん』に出演した、魚クン「ぎょぎょぎょ!」は惜しい!。『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」よりも先にアピールしていれば良かったのにね。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2017年10月06日

我門家は夜は眠りを断ち、昼は暇を止めて之れを案ぜよ。一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ

(このコラムは、平成30年元旦に届いた住職からのお葉書を掲載しました。)

「我門家(わがもんけ)は夜は眠りを断ち、昼は暇(いとま)を止めて之れを案ぜよ。一生空(むな)しく過して万歳悔(ばんざいく)ゆること勿(なか)れ。」
                   『日蓮大聖人 富木殿御書より』




 右の御文は、日蓮大聖人様が檀越であった富木常忍へ宛てたお手紙の文末にお書きになられたお言葉です。
このお言葉をお書き残された文中の意図は、何が正しくて何がいけないのか。何をすべき事かを昼夜考えて行動を起こす事が大事であると教示されたお言葉です。御文章をそのまま読むと誤解を受けやすいお言葉ですが、決して一睡も寝ないで夜を過ごし、休憩もせずに昼間働き続けなさいという事ではありません。日々常に今なすべき事を考えて実行し、悔いを残さない人生を送りなさいとおっしゃっているのです。

 先月、総本山の身延山久遠寺へ弟子の雄翔に面会をしてきました。彼の手は日々の修行生活によって酷いあかぎれとなり血だらけでした。それを見てかつて自分も同じように十五才の時に総本山で修行をしていた昔、師匠とのとある思い出が蘇ってきました。短い冬のお休みを総本山から頂戴し、師匠の元へ帰省した時の事、、北海道の極寒のなか暖房をつけず、自分が米とぎを行っていた時に、師匠に「代われ」と言われ「精進と言う言葉がなぜ、米に青いという字に進むと書くか知っているか?」と、凍てつく冷たい水に手を真っ赤に染めながら「日本酒が酒造される工程で、洗米し続けて究極の状態になった時、米が青白く光り輝く」と言うのです。要するに精進とは、自分を米に例え置き換えたように、無我夢中、懸命に努力を続けて垢を洗い流していけば必ず光り輝く事ができるのだから仏道精進に怠る事無く励むよう訓育を頂いた事がありました。

また今年も人生に一度しかない時間がスタートします。この一年を一日一日大事に過ごし、見つめるべき事を見つめ考えるべき事を考察し行なうべき事を行って悔いのないよう昼夜常精進を行なっていきたいと思います。今年の大晦日には3人(男性2人女性1人)の信者の方が十年間十回目の水行を達成しました。その精進の志と姿、体験は、以後の自身の人生に持っていく事ができる唯一の宝となり輝く事でしょう。

皆様の年中安泰無難をお祈りします。
今年もどうぞ宜しくお願いします。




写真=身延山高等学校新聞『法灯』より
身延山高等学校Facebook

(下の写真は、このコラムに書かれている住職の御子息でお弟子さんでもある太田雄翔(ゆうと)君の手です。総本山久遠寺での厳しい修行生活によって酷いあかぎれをおこしてしまいます。平成30年1月6日に住職が撮影されたものですが、この時は12月上旬の時よりも少し良くなっていたそうです。しかし現在は、寒中修行が始まり寒い夜間に久遠寺から総門までの距離をうちわ太鼓片手に大きな声でお題目(南無妙法蓮華経)を唱えて往復2時間歩く修行でまた状態は悪化しているそうです。声もかれてしまい喉の痛みもあるとの事です。

 

先日届いた「くらしのニュース」を読んで、太田住職に総本山久遠寺での修行について少し聞いてみました。

太田住職「総本山身延山久遠寺の本院寮では、大人でも辛く本格的で厳しくも尊い修行が行う事ができるが、しかしその志願する者は、毎年ごくわずかな人数しかいません。」

Q.「なぜ雄翔君は、総本山久遠寺で修行しようと思ったのですか?」

太田住職「本人が高校進路を決める時に身延山高等学校を選び、総本山久遠寺に入り修行をしてきたいと言いました。私も久遠寺で修行を6年間(当時最長期間)行っていましたが、とにかく厳しくて逃げ出す者が続出で後が絶えませんでした。しかし総本山は日蓮宗僧侶を志す者にとってこれ以上にふさわしい修行の聖地はありません。
日蓮宗の僧侶の資格をいただくための三十五日の結界に入り修行を行う信行道場という場所での修行が身延山で行われますが、それだけでは不足すぎて駄目なのです。
日蓮大聖人様が9年間お過ごしになられた晩年ご安住の聖地には、未来までも魂は身延山に住んでいると仰せになられた随所であり、身延山の空気、山の聲、川の音、日蓮大聖人様ご在世当時からそびえたつ木々、そこに生きる命の輝き、そうした特別な環境に身を置きながら久遠寺での厳粛な法要、読経を行い、それらすべてのものに長期間にわたって修行をしながら触れ、感じる必要があるのですが建物に籠りっきりの信行道場だけでは全てが不足なのです。
私は、日蓮宗僧侶を志す全ての者は、総本山久遠寺に衣食住を置き修行生活を最低でも3年~5年以上過ごす事を宗門が必須としなければならないと個人的に感じています。総本山久遠寺内で修行を行う学僧のことを在院生=(ざいいんせい)と呼び、本院寮で早朝から夜21時30分まで自由時間が無く修行生活をしながら平日の日中(お昼時間以外)は、学校で勉学に励み生活をします。最長7年間の修行に耐えねばなりません。」とのこと。


現在、雄翔君は16才で新入生です。在院生の修行の厳しさがひしひしと伝わってきます。身延山久遠寺で修行を志したい人は、住職へ相談を持ちかけてみては?)

 

 

(写真は平成30年1月29日に追加しました)

2018年01月01日

小牧豊山くらしのニュースで紹介されました

平成30年1月26日に中日新聞 株式会社小牧サービス「小牧豊山くらしのニュース」(発行部数95,900部 小牧市・豊山町・春日井西北部・大口町南部の全域配布)で、妙蔵寺の山主 太田上人のご子息でお弟子でもある太田雄翔(ゆうと)君(16才-現在 日蓮宗の総本山身延山久遠寺で最も厳しいとされる最長7年間の修行に挑んでいます。)が紹介されました。

 


毎年12月31日の大晦日の夜に水行を行っています。参加ご希望のお方は、準備の都合上11月末日までにお気軽に当山までお問合せ下さい。

 

 



修行風景写真=身延山高等学校新聞『法灯』より
身延山高等学校Facebook



先日届いた「くらしのニュース」を読んで、太田住職に総本山久遠寺での修行について少し聞いてみました。


太田住職「総本山身延山久遠寺の本院寮では、大人でも辛く本格的で厳しくも尊い修行が行う事ができるが、しかしその志願する者は、毎年ごくわずかな人数しかいません。高校1年生から大学4年生までの学僧がいます。」


Q.「なぜ雄翔君は、総本山久遠寺で修行しようと思ったのですか?」

 

太田住職「本人が高校進路を決める時に身延山高等学校を選び、総本山久遠寺に入り修行をしてきたいと言いました。私も久遠寺で修行を6年間(当時最長期間)行っていましたが、とにかく厳しくて逃げ出す者が続出で後が絶えませんでした。しかし総本山は日蓮宗僧侶を志す者にとってこれ以上にふさわしい修行の聖地はありません。
日蓮宗の僧侶の資格をいただくための三十五日の結界に入り修行を行う信行道場という場所での修行が身延山で行われますが、それだけでは不足すぎて駄目なのです。
日蓮大聖人様が9年間お過ごしになられた晩年ご安住の聖地には、未来までも魂は身延山に住んでいると仰せになられた随所であり、身延山の空気、山の聲、川の音、日蓮大聖人様ご在世当時からそびえたつ木々、そこに生きる命の輝き、そうした特別な環境に身を置きながら久遠寺での厳粛な法要、読経を行い、それらすべてのものに長期間にわたって修行をしながら触れ、感じる必要があるのですが建物に籠りっきりの信行道場だけでは全てが不足なのです。
私は、日蓮宗僧侶を志す全ての者は、総本山久遠寺に衣食住を置き修行生活を最低でも3年~5年以上過ごす事を宗門が必須としなければならないと個人的に感じています。総本山久遠寺内で修行を行う学僧のことを在院生=(ざいいんせい)と呼び、本院寮で早朝から夜21時30分まで自由時間が無く修行生活をしながら平日の日中(お昼時間以外)は、学校で勉学に励み生活をします。最長7年間の修行に耐えねばなりません。」とのこと。

 

現在、雄翔君は16才で新入生です。在院生の修行の厳しさがひしひしと伝わってきます。身延山久遠寺で修行を志したい人は、住職へ相談を持ちかけてみては?)

 

 

2018年01月29日

法話 法華経とお題目 信仰の継承

法 話『 法華経とお題目、信仰の継承』

 当山の住職の法話を掲載します

 

《 お墓と心の豊かさ 》

 遠方に住んでいるご友人や知人に会いに行くときには相手の事を思って思い出話など話題となる何かを必ず考えていると思います。遠い場所にお墓がある場合も同じように、そこにたどり着くまでの時間にご両親や祖父母ご先祖の事をいろいろ考える時間があるわけです。そうした時間がすでに供養となっているのです。その時間が長ければ長い程、大きな功徳で供養を果たしている事に繋がっているのだと気が付く事ができるはずなのです。
近くにお墓があってお参りに行く人よりも、思いを寄せる時間がたっぷりあってかえって良いなと思える人の心はとても豊かな人です。こうした人は、同時に幸福感が豊かな人ですから成功をおさめる事ができて必ず人が羨むほどの幸せな生活を過ごされているお方が多いのです。
お墓などの事を考えると、「子供に世話をかけたくない」と思われるお方も今や少なくはないでしょう。しかしちょっと考えてみてください。
自分の子供が立派に成長し良い年齢となっているはずです。何時までも子供扱いしていては大人としての子供の面子も立ちません。何時までも親に保護されている子供である事を証明してしまっているのです。逆に子供が、「大丈夫だ何も心配せんでくれ!ドンと任せたもうせ」と今テレビの大河ドラマ「西郷どん」のようにたくましく言って頂けたのならば、なんとも頼もしくこれ以上に幸せな事はないでしょう。
子供は、親孝行、先祖孝行を果たすことができ、親は立派に子供を育ててきた甲斐があったと思えるはずではありませんか?そればかりか大事な自分の子供が孫の代になった時、同じような思いにさせなくて済み涙がこみ上げてくるような安心感に包まれ幸せを感じられるように「幸福という縁の繋ぎ」をしてあげられるのです。

お子さんがいなくご自身の後に続かないお方は、永代供養廟、合同墓「安穏廟」のある当山、妙蔵寺を大いに頼って下さい。
「現世安穏 後生善処」その為の法華経とお題目の信仰、そしてお寺との関係なのです。

《 先祖からの菩提寺という深い仏縁 》

 自分は次男だから親の代まで続いてきた菩提寺に入らずお題目の信仰も止めて他の宗教に入ったり、他のお寺に入ってもそれで良いと言う事には残念ながらならないのです。
先祖代々とか類代という供養を捧げた時に、親類親族が代々信仰を行ってきた菩提寺に葬られ祀られている事によって、先祖供養の関係が親族お互いに近くなり強いものとなっているのです。供養は眼に見えない心の表しであるが故に、どこまで行き届いているかがはかる事ができなくても、葬られた一族が代々同じ場所、同じお寺にて供養を行なう事ができれば、見えないものが眼に見える供養として明らかな実感が持てるはずなのです。
 法華経とお題目の教えは、仏法のなかでも最上最尊であり一番大事な教えなんだよと法華経を少しでも内容をお解りのお方には、お釈迦様と日蓮大聖人様がご教示されている事をご存じかと思います。さらに法華経の中には、

『化城諭品。第七』「三悪道充満し諸天衆減少せり。今(いま、)仏(ほとけ)世(よ)に出でて衆生の為に眼となり世間の帰趣(きしゅ)する所として一切を救護し衆生の父と為って哀愍(あいみん)し饒益(にょうやく)したもうものなり。我等(われら)宿福(しゅくふく)の慶(きょう)あって今(いま、)世尊(せそん)に値(あ)いたてまつることを得(え)たり。」

そもそも法華経とお題目に仏縁のある皆様方には、お釈迦様と日蓮大聖人様とも遠い昔の前世から、自らのみならず命の継承をしてきた今日の「いのち」に、「宿福の慶あって今、世尊(せそん)(法華経とお題目)に値(あ)いたてまつる」ゆえの「尊い仏縁」をお持ちなのだという事が説き示されているのです。
ですから他の宗教で良いと言うのではなく重要な事は、本尊と教えの本質そのものがどのような教義にそった教え(正法といわれた経典は法華経のみ)であるのかが最重要なことですが、幸いにも日蓮宗の寺を菩提寺として定めている事に、尊い仏縁があって、ご先祖さまが代々に信仰を捧げてきて尊い血脈によって繋いでこられたという事でもあるのです。その大恩徳をまさに簡単に切って逃れてしまうと言う背徳な行為は、いわば大罪を犯すようなものでもあり、自分や子供、孫までの命を切る事と同じ事なのです。こうした行為をなす精神の在り方は苦悩の根源をつくりだしますので、親から子へ七代、現世から未来世まで伝染し続いていくという道理もあるのです。結婚などによって嫁いでこられたお方は、これこそ「宿福の慶あって今世尊(法華経とお題目)にあいたてまつる」という様に、そのお方に前世からの大功徳がおありであったのです。法華経は生まれ変わりが説かれている教えでもありますが、このお話についてはまたの機会とさせて頂きます。


日蓮大聖人は、治部公の祖母に宛てたお手紙のなかに次のように説かれています。

「悪の中の大悪は我が身にその苦をうくるのみならず、子と孫と末七代までもかかり候けるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になりたもう。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となりたもう。乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量衆生三悪道をはなるるのみならず、みな初住 妙覚の仏となりぬ。」『盂蘭盆御書』

世間の風潮のようなものに流されてとても大事なものを失わないで頂きたいと思います。

今の核家族が主流となってしまった時代にこそ、真に法華経とお題目の信仰が、私達の家庭、家族をつなぎ、絆を深めそれぞれの人生に光明を与えてくれるのです。

しっかりと法華経の教えに準じてお題目をお唱えしていきましょう。


どのような事でも当山 妙蔵寺の日瓏をお頼りください。


2018年10月22日